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政治団体に対して設立の届出と政治資金収支報告書の提出義務を課して政治資金の流れを明らかにするとともに、政治活動に関する寄附(政治献金)や政治資金パーティーの制限、株式などによる投機的運用の禁止など政治資金の取り扱いを直接的に規制し、違反した場合には罰則なども課せられる。 なお、報道などでは政治活動に関する寄附のことを「政治献金」と呼ぶことがあるが、これは法律用語ではない。また、寄附だけでなく政治資金パーティーのパーティー券の購入をあわせて政治献金と言う場合もある。 1975年、全面的な改正が行われ、政治活動に関する寄附の制限が導入されるとともに、政治団体の収支公開が強化された。1992年、政治資金パーティーに関する規制、政治団体の資産公開、政治資金の運用の制限などが新設された。1994年、選挙制度改革・政党助成制度の導入と軌を一にして、企業・団体からの寄附の対象を政党(政党支部を含む)、政治資金団体、新設された資金管理団体に限定。1999年、資金管理団体に対する企業・団体からの寄附が禁止された。 2005年、日歯連闇献金事件を機に、政治資金団体に関する寄附の出入りについては原則銀行や郵便振込み等で行うことが義務づけられた。また、政党及び政治資金団体以外の政治団体間の寄附の上限(年間5000万円まで)が設けられた(それまでは無制限)。 2007年、事務所費問題を受け、資金管理団体による不動産取得の禁止や資金管理団体の収支報告義務の強化を内容とした改正が行われた。2008年、国会議員関係政治団体に関して、1円以上の領収書公開や第三者による監査義務付けを柱とした改正法施行(2009年分の収支報告書から適用)。 「大正」の由来は『易経』彖伝・臨卦の「大亨以正、天之道也」(大いに亨(とお)りて以て正しきは、天の道なり)から。「大正」は過去に4回候補に上がったが、5回目で採用された。 大正天皇 竣工当時の東京駅。1914年(大正3年)に完成した。本時代は後世から振り返った時、大正デモクラシーに基づいた安定期として見られることが多い。しかし、同時代的には、近代日本の象徴であった明治天皇の崩御、そして病弱であった大正天皇の即位、という不安感を拭きれない状況から始まったのである。また、大正期を通じて都市に享楽的な文化が生まれる反面、スラムの形成、民衆騒擾の発生、労働争議の激化など社会的な矛盾が深まっていった。 大正年間には、2度に及ぶ護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、明治以来の藩閥支配体制が揺らいで、政党勢力が進出した。それは大正デモクラシーと呼ばれ、尾崎行雄・犬養毅らがその指導層となった。大正デモクラシー時代は、1918年(大正7年)の米騒動の前と後で分けられることが多いが、米騒動後、初めて爵位を持たず、衆議院に議席を持つ平民宰相原敬が内閣を組織した。しかし、原はその登場期に期待された程の改革もなさないままに終わり、一青年により東京駅頭で暗殺された。普選運動が活発化し、平塚雷鳥や市川房枝らの婦人参政権運動も活発となった。1925年(大正14年)には、普通選挙法が成立したが、同時に治安維持法が制定された。言論界も活況を呈し、天皇制と民主主義を折衷しようとした吉野作造の民本主義や美濃部達吉の天皇機関説などが現れた。1923年(大正12年)に関東大震災が起こり、首都が壊滅的な打撃を受けたが、程なく復興した。震災後、山本権兵衛内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。大正末期には、ベルサイユ・ワシントン体制に順応的な幣原外交(加藤内閣)が展開され、中国への内政不干渉、ソ連と国交回復など、一定の民主的な色彩を示した。 明治末期にかけては軍部や元老山縣有朋の下で藩閥政治が続いていたが、大正初期にかけては山県系列の桂太郎と比較的リベラルな西園寺公望が交代で組閣し、桂園時代とも呼ばれていた。1912年(明治45年)、第2次西園寺内閣の陸軍大臣上原勇作が、内閣が2個師団増設を否決したことに抗議して単独辞任し、陸軍は後任陸相を出さなかったため軍部大臣現役武官制によって陸相を欠いた西園寺内閣は総辞職した。 その後、桂太郎が議会での交代のルールを無視して宮中侍従長から3度目の首相に返り咲こうとした。この桂の返り咲きに対して、都市部の知識階級を中心にその反発は強まった。そして尾崎行雄・犬養毅らによる憲政擁護運動(護憲運動)が起こり、新聞の批判も起こった外、民衆が国会を取り囲む事態も生じ、ついには僅か数ヶ月で倒閣となった(第一次護憲運動、大正政変)。 このため山本権兵衛(第1次)に組閣の命が下った。立憲政友会の援助を受け、原敬内相の下、安定した政権運営を行った。軍部大臣現役武官制を緩和するなど、政党寄りの姿勢を示したが、シーメンス事件をきっかけに再び世論の反発を受け、最終的には貴族院との関係悪化から倒れた。 次いで元老井上馨の後押しにより、庶民的で大衆に人気のあった大隈重信が組閣した。1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦では、加藤高明外相が中国に二十一か条の要求を提出した(対華21ヶ条要求)。 大隈内閣退陣後には、二大政党制を目指し、1913年(大正2年)に桂が死の直前に結成した立憲同志会が他党を取り込むかたちで憲政会へと拡大した。 これとほぼ同時に組閣した寺内正毅内閣が成立した。1917年(大正6年)のロシア革命でソ連が成立したが、日本は革命政権の転覆のためシベリアに出兵した。折から、大戦景気によるインフレとシベリア出兵をきっかけとして国内では米価が暴騰し、富山県から米騒動が起こり、全国に広がった。政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は退陣した。 代わって初めて爵位がなく、また衆議院にFX を持つ平民宰相として政友会の原敬が首相となり、1918年(大正7年)本格的政党内閣として原敬内閣が成立する。しかし、1921年(大正10年)に原が東京駅頭で一青年に暗殺された。 続いて政友会総裁となった高橋是清が首相となったが、政友会の調整能力に欠き、高橋内閣倒閣後は非政党内閣が続いた。 その後、関東大震災や虎ノ門事件の発生は、それまでの藩閥に危機意識を抱かせ、第2次山本権兵衛内閣が虎ノ門事件で倒れた後、枢密院議長から天下って清浦奎吾が内閣を組織しようとした。それに対し憲政会・革新倶楽部・政友会の三派は、普選の採用、政党内閣制の樹立を掲げて、藩閥・官僚勢力を主体とした政友本党に対抗した。護憲三派(憲政会、政友会、革新倶楽部)は選挙で勝利し、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した(1924年(大正13年)、第二次大正政変)。 加藤高明内閣は1925年(大正14年)、普通選挙法を成立させ、ついに身分や財産によらず成人男子すべてに選挙権を与える普通選挙が実現することになる。普選は、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった。またそれは「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、それと同時に治安維持法を成立させ、「国体の変革」「私有財産否定」の活動を厳重に取り締まった。しかし、これによって政党政治が定着するようになった。この後、1932年(昭和7年)に犬養毅内閣が五・一五事件で倒れるまで、政党政治が続き、明治以来の藩閥政治は一応終焉した。政党内閣時代はこのときまで続き(憲政の常道)、政治は、官僚や軍部を基盤にしつつも政党を中心に動いていくこととなった。 1914年(大正3年)には第一次世界大戦が勃発した。日本は直接的戦闘地域はほとんどなかったにもかかわらず元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦し戦勝国の一員となった。 発生直後こそは世界的規模へのくりっく365 に対する混乱から一時恐慌寸前にまで陥ったが、やがて戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本と米国両新興国家が物資の生産拠点として貿易を加速させ、日本経済は空前の好景気となり、大きく経済を発展させた。特に世界的に品不足となった影響で造船業・繊維業・製鉄業が飛躍的に発展し、後進産業であった化学工業も最大の輸入先であるドイツとの交戦によって自国による生産が必要とされて、一気に近代化が進んだ。こうした中で多数の「成金」が出現する。また、政府財政も日露戦争以来続いた財政難を克服することに成功する。 だが、1918年(大正7年)に戦争が終結すると過剰な設備投資と在庫の滞留が原因となって反動不況が発生して景気が悪化した。更に戦時中停止していた金輸出禁止の解除(いわゆる「金解禁」)の時期を逸したために、日本銀行に大量の金が滞留して金本位制による通貨調整の機能を失って、政府・日銀ともに景気対策が後手後手に回った。更に関東大震災による京浜工業地帯の壊滅と緊急輸入による在庫の更なる膨張、震災手形とその不良債権化問題の発生などによって、景気回復の見通しが全く立たないままに昭和金融恐慌・世界恐慌を迎えることになる。