〜厳しい転職の現状〜

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1923年(大正12年)には関東大震災が生じた。この未曾有の大災害に東京は大きな損害を受けるが、震災後、山本権兵衛内閣が成立し、その内務相となった後藤新平が辣腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラが整備され、大変革を遂げた。またラジオ放送が始まるなど近代都市へと復興を遂げた。しかし、一部に計画されたパリやロンドンを参考にした環状道路や放射状道路等の理想的な近代都市への建設は行われず、日本は戦後の自動車社会になってそれを思い知らされることとなり、戦後の首都高速の建設につながる。一方、この震災に乗じて、暴動が生じるというデマが振り撒かれ、朝鮮人や共産主義者の虐殺が行われた亀戸事件などが起こったことや、震災直後の緊急対策であった筈の震災手形の処理を遅らせて不良債権化させた結果として金融恐慌を招いたことは歴史の負の側面であろう。 大正時代前後に都市を背景にした大衆文化が成立した。今日に続く日本人の生活様式もこの時代にルーツが求められるものが多い。 東京においては、震災の影響が総じて少なかった丸の内、大手町地区にエレベーターの付いたビルディングの建設が相次ぎ、一大オフィス街が成立した。下町で焼け出された人々が世田谷、杉並等それまで純然たる農村であった地域に移住して、新宿、渋谷を単なる盛り場から「副都心」へと成長させた。それより先大阪では、おびただしい私鉄網が完成し、なかんずく阪神急行電鉄の巧みな経営術により、大阪平野に広大な住宅衛星都市群が外為 した。東京帝大の卒業生の半数が民間企業に就職するようになり、「サラリーマン」が大衆の主人公となった。明治時代まで呉服屋であった老舗が次々に「百貨店」に変身を遂げ、銀座はデパート街へと変貌した。 明治神宮外苑に「神宮外苑野球場」ができたのが1926年(大正15年)、その前年出発した「東京六大学野球」が愈々隆盛をきわめるようなる。「大阪朝日新聞」、「大阪毎日新聞」が100万部を突破して東京に進出、それに対抗した読売新聞も成長を果たして、今日「三大紙」といわれるようになる新聞業界の基礎が築かれた。1925年(大正14年)3月には、東京、大阪、名古屋でラジオ放送が始まり、新しいメディアが社会に刺激を与えるようになる。震災で鉄道が被害を受けたこともあって、「自動車」が都市交通の桧舞台にのし上がり、「円タク」の登場もあって、旅客か貨物であるかを問わず陸運手段として大きな地位を占めるようになる。都市部では新たに登場した中産階級を中心に“洋食”が広まり「カフェ」「レストラン」が成長、飲食店のあり方に変革をもたらした。また、コロッケなどの登場によりそれまで洋食とは縁のなかった庶民の食卓にまで影響が及ぶこととなった。明治時代まで庶民に縁のなかった「欧米式美容室」、「ダンスホール」が都市では珍しい存在ではなくなり、男性の洋装が当たり前になったのもこの時代である。一方、地方(特に農漁村)ではそういった近代的な文化の恩恵を受けることはまれで、都市と地方の格差は拡大していった。 文学界には、芥川龍之介や白樺派の人道主義(ヒューマニズム)が台頭した。 このころまでに近代日本語が多くの文筆家らの努力で形成された。今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、芥川龍之介、有島武郎・武者小路実篤・志賀直哉ら白樺派、中里介山の『大菩薩峠』や『文藝春秋』の経営にも当った菊池寛などの文芸作品が登場した。同時期の1921年(大正10年)には、小牧近江らによって雑誌『種蒔く人』が創刊され、昭和初期にかけてプロレタリア文学運動に発展した。また1924年(大正13年)には、演劇で小山内薫が築地小劇場を創立し、新劇を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「活動写真」と呼ばれたFX などの娯楽も徐々に充実した。 この当時、社会事業をめぐる議論が盛んとなり、米騒動後には政府・地方で社会局および方面委員制度の創設が相次いで行われ、それらの機関によって都市の貧民調査や公設市場の設置などが進められていった。 また1919年(大正8年)には、第一次世界大戦を契機とした国民の思想・生活の変動に対処するという目的で内務省の主導による民力涵養運動が開始されており、後の教化総動員運動の先駆けともなる、国家が国民の生活の隅々まで統制を行おうとする傾向がこの時期から見られるようになる。 こうして大正時代において社会事業が活発となった原因として、小作争議の頻発や労働運動の大規模化など、地方改良運動に見られるような従来の生産拡大方針では解決不可能な問題が深刻化したことが指摘されている。 コーカソイド (Caucasoid) は自然人類学における人種分類の一つ。Caucasoidとは、実在する地名の「コーカサス」に「…のような」を意味する接尾語のoidをつけた造語で、「コーカサス系の人種」という意味である。 コーカソイドの類型白色人種(いわゆる白人)とも呼称され、人類学の権威としてコーカソイドの概念を広めたヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハはヨーロッパ地方にルーツを持つ人々を「コーカソイド」と定義していた。だが言語学の進歩やDNA分析の成果により、現在では中東およびインド亜大陸の主要民族、並びに北アフリカ人の一部も「コーカソイド」に含まれるとされている。 元々はドイツの哲学者クリストフ・マイナースが提唱した外国為替 であった。彼に影響を受けた人類学者ブルーメンバッハが生物学上の理論として五大人種説を唱えた際、ヨーロッパに住まう人々を「コーカシアン」なる人種と定義した事で世界的に知られるようになった。 初期の人類学が成立したこの時代のヨーロッパは、ユダヤ教やそこから派生したキリスト教に由来する価値観が今以上に重んじられていた。その為、『創世記』のノアの箱舟が辿り着いたとしたアララト山があるコーカサス地方はヨーロッパ人の起源地と考えられ、神聖視されていた(アルメニア教会に至っては聖地とされている)。また聖典である旧約聖書では白い色を光、黒い色を闇としていた。これらから初期の人類学を主導したヨーロッパ人学者は自分たちヨーロッパ人を「ノアの箱舟でコーカサス地方に辿り着いた人々の子孫で、白い肌を持つ」と定義し、それを表した呼称として「コーカソイド」を用いたのである[1]。 トマス・ヘンリー・ハクスリーによる人種の分布図(1870年)[2]コーカソイドとはヨーロッパ人がキリスト教的価値観に基づいて自己を定義する為に創出された概念である。故にその範囲は基本的に東欧・西欧の双方を合わした全ヨーロッパ地域に限定される場合が殆どであった。 最初期の人類学は科学的根拠に乏しい、偏見や先入観に満ちた内容であることが少なくなく、言わば人種差別的な思想を多分に含んでいた。事実、提唱者であるブルーメンバッハもさまざまな人間の集団の中で「コーカサス出身」の「白い肌の人々」が最も美しい、人間集団の「基本形」で、他の4つの人類集団はそれから「退化」したものだと考えていた[3]。つまり最初の時点で白人至上主義的な考えが基盤に存在していたのである。その後、他の人類学者によって(白人が他に優越しているという原則の上で)コーカソイドを更に細分化しての分類が試みられた。ウィリアム・Z・リプリーによる北方人種・地中海人種・アルプス人種の三分類などが有名である他、東ヨーロッパ人種・ディナール人種という分類も存在する。 初期の人類学の人種判別は外見の違い(特に肌の色)による判断という、かなり原始的な考察を頼りとしていた。また上述されている通りキリスト教への信仰心が深く関与している概念であり、風貌的に似通っていても異教徒である場合は意図的に範囲から除外される事もあった。その為、後の遺伝子学の発達によってヨーロッパ人と同じ生物的特徴を持つ事が科学的に立証されるまで、中東やインド亜大陸の住民は有色人種の一派としてコーカソイドの定義から排除され続けた。 人種分類はその性質上、優生学などの差別的な思想と結び付き易く、実際にクー・クラックス・クランやナチスのような勢力を生み出す遠因となった。故に現在の生物学における人種に関する研究は、現生人類は一種一亜種であるという前提の上で慎重に行われている。あくまで人種とは現生人類の遺伝的多様性の地域的・個体群的偏りに過ぎず、人種相互に明瞭な境界を有するものではないとするのが、現代科学の結論とする所である。 なお、近年の国際的な学会では、人種分類としてのコーカソイドという名称から、地域集団の一つとしての「西ユーラシア人」という名称が一般的になりつつある(詳しくは人種を参照)。 セントアンドリューズ大学が発表した金髪の分布図(2005年)。金色は80%以上、黄色は79%〜50%、薄茶色は49%〜20%、茶色は20%以下の地域を指している。その他(焦茶色)の部分は0%、つまり全く金髪が存在しないとされる。 顔の凹凸が多く、鼻が高い(永く乾燥地域で居住するうちに、呼吸時に吸気を湿らす必要性から、体質的に鼻腔が拡がったため)。体毛が多く髭の濃い者が多い(女性でも比較的ひげの目立つ者がいる)。頭髪は細く、ゆるく波打つか巻き毛で、直毛は少ない。 メラニン色素の薄い肌・毛髪(金髪等)・虹彩(髪に限らず、色素の薄さを総じてブロンドと呼称する)。特に北欧に居住する個体に多く見られるが、他地域のコーカソイドにおいても発生する。ただし、必ずしも目の明るさと髪の明るさは一致しない。 ただし、コーカソイドの中でも金髪は少数であり、また極めて少数ながらモンゴロイドにおいても発生するケースがある。 そもそもの「白人」の名称の由来の一つではあるが、前に述べた通り必ずしも共通している訳ではなく、肌の色は体格や他の色素に比べ容易に変動する。よって肌が薄褐色〜褐色の個体も少なからず存在しており、最も肌の色の多様性に富んだ人種であるといえる。 大きな体格 これも地域によって差があるが、概ねモンゴロイド系に属する諸民族の平均身長よりも高い[4]。 世界の18人類集団の遺伝的近縁関係を23種類の遺伝子の情報をもとに近隣結合法によって作成された「人種」の遺伝的近縁図アフリカ大陸で誕生した現生人類は、中東地域を経てユーラシア大陸に進出し、東はインド亜大陸から西はイベリア半島まで居住地域を拡大する。 「コーカソイド」の分布地域は、中東(イラクなどのアラブ諸国)及び南アジア(インド亜大陸)などである。その後、西方では西アジア(トルコやアルメニア)および地中海を中心としたヨーロッパに進出する一方、東方では中央アジアへ進出した。 ヨーロッパ系コーカソイドのうち、ギリシャ・イタリア等の地中海諸国のコーカソイドは、アフリカからアラビア半島に移住した人々が中東・西アジアの地中海沿岸の陸路を経てその地域に定住した人々とされているが、フランスから北欧に至る大西洋沿岸(イギリス・東欧を含む)に住むコーカソイドは中東地域から中央アジアに進出したグループが、ユーラシア大陸の内陸を経由してヨーロッパに定住した人々とされている。 また大航海時代以降は特にヨーロッパ系「コーカソイド」が植民地移民により大きく居住地域を拡大し、世界的に拡散した。