〜厳しい転職の現状〜

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全共闘運動当時のような大衆的な拡大・勢いを失った中核派は、その後、80年代に入ってゲリラ闘争にその活路を見出していくようになった。同派はこれまでに、建設省(現・国土交通省)幹部宅や新東京国際空港公団(現・成田国際空港株式会社)幹部職員宅などに対する放火・放火未遂ゲリラ事件、自由民主党本部や空港施設などを狙った火炎瓶や火炎放射器を用いた放火ゲリラ事件、国電同時多発ゲリラ事件などを引き起こしている。 1985年頃からは手製の散弾銃・圧力釜爆弾・時限発火装置の製造や、飛距離数キロメートルに及ぶ迫撃弾・ロケット砲も使用するようになった。85年10月には革労協と共にゲリラ事件(10.20成田現地闘争)を行い、翌86年の東京サミットでは、成田空港と迎賓館に向けて迫撃弾と飛翔弾(ロケット榴弾)を発射、皇居の爆破未遂事件を引き起こした。 88年9月21日には、千葉市内の路上で、当時千葉県収用委員会会長で弁護士の小川彰を襲撃している。小川弁護士は全身を鉄パイプで殴られ、両足と左腕を骨折するという重傷を負った(小川弁護士は2003年7月にこのテロの後遺症を苦に自殺する)。このテロに中核派は犯行声明を出し、「収用委員会解体闘争」と称して「電話と整体師 を集中せよ」として、他の収用委員全員の住所と電話番号を機関紙『前進』に掲載した。中核派は収用委員に組織的に脅迫じみた手紙、電話などを送り続け「家族ともども死刑台に乗っていると思え」という手紙が届いたこともあったという。他にも寿司・そばなどの出前を勝手に注文するなどの嫌がらせも頻発していた。その結果翌月、ついには収用委員全員が辞任する事態となる。 また、昭和天皇死去と現天皇の即位に関連して、1989年から約2年間にかけては「90年天皇決戦」「大嘗祭粉砕」と称して、大山祇神社など皇室とゆかりの深い神社仏閣の破壊、往来妨害、成田空港行きの列車への放火など、多くのテロ・ゲリラ事件を引き起こした。 対立党派、特に宿敵である革マル派との内ゲバ「白色テロル」も、80年代に入ると国鉄分割民営化をめぐる対立で動労幹部などを殺害するなど激しく続いた。あるいは、かつて革マル派が行ってきたような、大学構内から他党派やノンセクトの活動家を暴力的に排除する「党派による恐怖支配」を中核派も法政大学、京都大学をはじめ、各地の大学で強めることになる。 テロ・ゲリラ闘争は、世論の猛烈な指弾を受け、警察の取り締まりと孤立化を強める結果となった。近年は若手獲得とこれ以上の孤立化を防ぐため、テロ・ゲリラ等を控えて、組織拡大に重点を置き、市民運動や労働組合、ワーキングプア層への浸透を図る戦術を採っている。これは1991年に中核派が「将来の武装闘争に備えてテロ・ゲリラ戦術を堅持しつつも、当面は武装闘争を控え、大衆闘争を基軸に党建設を重視する」との方針を決めた「五月テーゼ」(03年以降は「新指導路線」と呼んでいる)に基づいた戦術である。ここで注意しなければいけないのは組織拡大とは単に同派の同盟員を増やすことだけではなく、同派と関連がある労組・団体(影響の程度は団体によってかなり異なる)の拡大や設立、かつてはほとんど関係がなかった団体との交流による影響力拡大も含まれることである。労働運動の分野では自治体、郵政、教育、JRを「四大産別」として、労組への影響力拡大を図っている。また、毎年11月頃に「全国労働者総決起集会」を東京で開催しており、その動員数は年々増加傾向にある。2005年の「11.6全国労働者総決起集会」では過去最高の2700人を動員した(平成17年の警備情勢を顧みてより)。歴史教科書問題では、2005年、新しい歴史教科書をつくる会が執筆した扶桑社発行の 教科書採択反対運動に積極的に介入し、東京都杉並区などで激しい反対運動を起こしている。東京都杉並区、神奈川県相模原市、大阪府泉佐野市、高槻市、八尾市の議会には中核派系の議員がおり、議会への進出度は日本労働党と並び、日本の新左翼の中では屈指。東京都知事選で青島幸男、国政選挙で社会民主党(個人では大田昌秀ら)、9条ネットのZAKIを支持、中核派系政治団体「都政を革新する会」の長谷川英憲を支援した。長谷川は、1989年の東京都議選で当選しており、これは新左翼では史上初の不用品回収 であった。 2006年、労組内の主導権を重視する「労働戦線派」(多数派、安田・中野一派とも)と、これまでの路線を踏襲し各方面での大衆運動に関わることを重視する「諸戦線派」(少数派、塩川一派とも)の対立から、関西や九州などで「粗大ごみ 派」に対する排除あるいは離脱などの内部対立が表面化した。同年に現役杉並区議2名も、議会闘争方針の対立から中核派の政治団体「都政を革新する会」から離脱し、「無所属区民派」を結成した。さらには運動の進め方を労働戦線に集中して、部落解放闘争を労働戦線の付随とするような運動方針をめぐって、これまで共闘関係にあった部落解放同盟全国連合会(全国連)とも関係が悪化し、2008年2月には全国連から「広島差別事件」として糾弾を受ける立場になった。中核派はこの問題において、糾弾を受けた2月時点では沈黙していたが、4月になって全国連を「塩川一派」と規定して機関紙で公然と批判し始め、公式サイトから全国連サイトへのリンクを削除しているなど、その対立の溝は拡大し始めている。更に杉並では都革新と無所属区民派の間で裁判沙汰となったり、中央に批判的な革共同関西地方委員会が独自に機関誌「展望」を発刊し執行部批判を展開するなど、泥沼の様相を見せている。 1959年 8月 革命的共産主義者同盟から分裂し結成される(革共同第2次分裂)。 1962年 9月 議長・黒田寛一派と書記長・本多延嘉派の対立が表面化する。 1963年 2月 黒田派が分裂して日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)を結成し、本多派は執行部を抑える(革共同第3次分裂)。 1970年 8月4日 東京教育大学(現・筑波大学)の学生だった革マル派の海老原俊夫を法政大学構内で襲撃し、殺害する。 中核派が指導する学生組織として、「マルクス主義学生同盟・中核派(マル学同中核派)」がある。学生大衆組織に全日本学生自治会総連合(全学連)があるが現在分裂しており、その一つを中核派が握っている(いわゆる中核派全学連)。現在、まったく影響力のないもの、学生の支持・認知を得ていないものを含め、中核派が活動拠点と称している大学は以下の通り。 東北大学 法政大学 2006年3月14日、大学「当局」の立て看板撤去に抗議していた中核派活動家29人(内法大生など大学関係者は5人)が建造物侵入と威力業務妨害の容疑で逮捕された。逮捕時には約200人の公安警察が動員され、フジテレビの取材が来ていた。大学側は2月27日、学内のビラまきや立て看板を許可制にすると宣言し、無許可であれば3月14日に撤去すると宣言していた。活動家達はその抗議に来た者である。大学・警察側は、活動家の立入には何も言わず、彼らがビラや立て看板の撤去への抗議を始めたところで逮捕に及んだ。 中核派はこの事件を「2006・3・14法政大学弾圧事件」と称し強く反発した。吉川経夫(法政大学名誉教授)らは不当逮捕であると抗議声明を出した。25日には29人全員が釈放され、そのうち法大生であった5人には停学や退学処分が下された。その後、処分生5人や法政大学無関係者も含む逮捕者を中心に「3・14法大弾圧を許さない法大生の会」なる団体をつくり、学内外で抗議活動を現在も行っている。大学側は警備員を常駐させるなどして対処している。06、07年中に停学学生に対して無期限停学や退学など追加処分が下され、(大学無関係者含めて)逮捕者は40名を超えている。学内からも、不当逮捕であるという批判が起こったが、しかし五十嵐仁のように、過去の中核派の行状を理由に支援をためらう者もあった