〜厳しい転職の現状〜

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現在の日本共産党規約[10]では、「地方的な性質の問題については、その地方の実情に応じて、都道府県機関と地区機関で自治的に処理する。」とし、民主集中制でありながら、一定の党内自治権を謳っている。かつては上意下達的な指揮命令権が確立されており地域の実情が考慮されていない傾向が強かった。その傾向により活動や自治体運営のうえで障害が発生する事もあったため、近年ではその反省からか「指導」はかなり控えめになっている。 日本共産党はいわゆる「査問」の存在を否定しているが、かつて「査問」に付され党を除名されたり、後年離党した査問経験者が、その経験談を著作やウェブサイト上で公開し、告発している[12][13]。最も著名な例1972年の「新日和見主義事件」では、査問の対象者は長期間一室に監禁され、家族への連絡も許されなかったなどの証言もあり、「重大な人権侵害」との指摘がある。 これに関しては、党としての公式見解として、被害者の方に謝罪している。現在は、党員の人権に配慮して、そのような査問は行っていない。緩やかな指導体制を目指し、党内でも民主主義(元々、標榜してきた民主集中制を転換し、各地区委員会ごとに掲げた目標を、各都道府県委員会へ反映させ、全国中央委員会へ反映させるという方式になった)型のシステムに転換を急いでいる。 日本共産党の事務所・施設は、本部、伊豆学習会館、都道府県委員会事務所、地区委員会事務所の党機関事務所と、衆議院議員ブロック事務所、参議院議員都府県事務所がある。他に補助機関(市委員会)の事務所や党地方議員(議員団)の事務所が存在する場合がある。選挙事務所は別の場合が多い。なおしんぶん赤旗の編集局と支局は党事務所とは別に存在する。 代々木駅・北参道駅に近い東京都渋谷区千駄ヶ谷四丁目の東日本旅客鉄道中央本線沿いにある。地上8階・地下2階の「2期棟」(2005年完成)と、地上11階・地下1階の「1期棟」(2002年完成)で構成され、延べ床面積は約16000m2で、延べ床面積では日本の政党本部ビルでは最大規模である[14]。総工費は85億円で、多くは党員・支持者からによる寄付や無利子借入金による。 「日本共産党中央委員会」を掲げ、中央委員会の諸機関が入居しており、中央委員会総会が開催できる500人収容可能の「大会議室」を有する。一方で、党大会は収容人数の問題から行わず、またしんぶん赤旗編集局は向かいの別のビルに入居している。 この他エントランスホールは8時から20時まで自由に出入りできるようにするなど、一部が一般に開放されている点が特徴。本部見学も行われている。なおこの場所は、元々映画館であった建物を党の合法化以降使用し始めたものであり、後に改築・建て増しを繰り返し、8棟のビルからなる本部となった。本部内は「平成日本のよふけ」で放送された。 静岡県熱海市上多賀の伊豆多賀駅西方約2kmの山中にある。科学的社会主義や公式党史などを学ぶ「党学校」などが開かれる他、党大会が付属大講堂で開催される。そのため、宿泊施設も存在する。この場所は、江戸城築城の際に石を切り出したところであるという。 伊豆に学習会館を設置したのは次の理由による。日頃の党活動をねぎらい、風光明媚で温泉などで活動の疲れを癒す場所として、温泉地に近い場所を選んだと聞く。合法化される以前は、党スパイなどからの影響を避けることが目的でもあったとも聞く。 は、「党大会」、「党学校」以外にも、各種講演会などでも利用が可能である(都道府県委員会からの申請によって可能)。 都道府県委員会、地区委員会は事務所を有しており、場所を公開し、勤務員が常勤している。地区委員会の事務所は概ね一般的な民家・小商店くらいの建物規模或いはオフィスビルの一フロア程度の規模が多く、ほとんどはしんぶん赤旗の新聞販売店(配達拠点・管理)の機能を併せ持っている。県庁所在地の場合、県委員会と地区委員会の事務所が同じ建物内にある場合もある。 新聞配達に関しては、民商会員の協力を経て配達を実施している。無償のボランティアではなく、件数に応じて配達料は支払われる。 しんぶん赤旗編集局が入居するASビルは、党本部ビルのJR中央本線を挟んだ向かい側にある(東京都渋谷区千駄ヶ谷五丁目)日本共産党は多くの中央機関紙誌を発行しており、党員・後援会員以外の人も購読する事ができる。 中央機関紙として日刊の『しんぶん赤旗』(ブランケット判)と週刊の『しんぶん赤旗日曜版』(タブロイド判)を発行している。かつては学生党員向けの『学生新聞』も発行されていた。 『前衛』、『女性のひろば』、『議会と自治体』、『月刊学習』などの月刊機関誌を発行している。これら雑誌は、日本国内一般書店での取扱が可能である。 かつては、『世界政治 - 論評と資料』(『IPO 政治資料』。1992年12月の第875号をもって廃刊)、『理論政策』(『理論政策資料』。1993年1月の第300号をもって廃刊)などの刊行物もあり、1983年に開始された写真誌『グラフこんにちは日本共産党です』は2000年12月17日の第372号をもって「休刊」している。 なお、1989年の消費税導入当初には新聞などの広告に「日本共産党は消費税廃止を主張していますが、流通取り扱い上価格は税込みとします」という文言が入っていた。 原稿の入稿から、編集、印刷まで、出版行程の電子化を進めた。そのため、Nifty等の有料データベースでも過去記事が検索可能である。その他、機関紙はCD-ROM化の実現を行い、機関紙及び書籍類は国立国会図書館の収蔵図書にも指定されている(ISSN番号及びISBN番号を取得している)。 また、英字紙も発行している(取り扱いは赤旗編集局ではないが、関連編集部で英訳したもの)。 都道府県委員会等の地方指導機関が発行する地方機関紙がある。『○○民報』(○○には当該地名が入る)という名称が非常に多い。中には党関連の別組織が発行している例(『京都民報』、『大阪民主新報』)もある。その他、地方議会議員(団)が発行する広報紙がある。 パンフレット(学習のしおり)なども、都道府県委員会で発行しているものもある。詳しくは、各地区委員会まで。 同党は新日本出版社の発行する月刊『経済』の普及(宣伝)に協力している。同党の事務所で販売や定期購読の申し込みを受け付けている。また、日本民主青年同盟の発行する『民主青年新聞』『われら高校生』(いずれも週刊紙)の購読の仲介もしている。 かつては小中学生向けの『少年少女新聞』や雑誌としては『文化評論』『あすの農村』『労働運動』などもあったが、休刊もしくは廃刊している。 また、新日本出版社との共同事業として進めてきた、資本論の完全訳(委員会訳)の普及も進めている。現在は、国内では完全訳は、岩波文庫に収蔵されているもののみ。 1922年7月15日、堺利彦、山川均、外貨預金 といった日本社会党の元党員を中心に日本共産党が設立された(9月創立説もある)。設立時の幹部には野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿らがいる。 しかし創設当時から、治安警察法などの治安立法により非合法活動という形を取って行動せざるを得なかった。ほかの資本主義国では既存の社会民主主義政党からの分離という形で共産党が結成され、非合法政党となったのとは違い、日本では逆に非合法政党である共産党から離脱した労農派などが、合法的な社会民主主義政党を産みだしていった。これはかなり異質である。 11月にはコミンテルンに加盟し、コミンテルン日本支部・日本共産党となった。この時、コミンテルンから綱領として「日本共産党綱領草案」が示されたが、日本での議論がまとまらず、結局草案のまま終わった。 当時の絶対主義的天皇制に反対し日本を民主国家にすることを目標としたため、日本共産党は繰り返し政府から弾圧を受け、運動が困難となった。堺利彦らは解党を唱え、結果1924年に解党された。堺や山川らは共産党運動から離れ、労農派政党の結成を目指した。また、後に日本革新党を結党する赤松など、国家社会主義等の右翼に転向する者もいた。 その後、1925年には普通選挙法と治安維持法が為替 された。この二つは後の共産党の運動に大きな影響を与える事になる。 1926年、かつて解党に反対していた荒畑寒村が事後処理のために作った委員会(ビューロー)の手で共産党は再結党された。佐野学、徳田球一らが幹部となっている。1927年には「27年テーゼ」がコミンテルンから通告される。これにより、社会民主主義との闘争の強調や、ファシズムと社会民主主義を同列に置く「社会ファシズム」論を採用することになる。この理論は、山川や福本和夫の理論を否定するものであったため、労農派と論争が起こり、両者は決裂することになる。この対立は1938年の人民戦線事件で労農派が消滅するまで続いた。(日本民主革命論争・日本資本主義論争)。 当時の党組織は、非合法の党本体と、合法政党や労働団体など諸団体に入って活動する合法部門の2つの柱を持ち、非合法の地下活動を展開しながら、労働農民党などの合法政党に顔を出して選挙活動を支えた。幹部であった野呂栄太郎らの『日本資本主義発達史講座』などの理論活動、小林多喜二や宮本百合子らのプロレタリア文学活動にも多大な影響を与えた。 1927年の第16回衆議院議員総選挙では徳田球一、山本懸蔵をはじめとする何人かの党員が立候補し、選挙戦のなかで「日本共産党」を名乗る印刷物を発行した。総選挙では労働農民党京都府連合会委員長の山本宣治が当選した。彼は非公式にではあるが共産党の推薦を受けており、初めての「日本共産党系の国会議員」が誕生した。しかし1928年の三・一五事件や1929年の四・一六事件で治安維持法に基づく一斉検挙を受け、党はダメージを受けた。また同年、山本宣治は右翼団体構成員に刺殺された。 当時の指導部内では革命近しの気運が高まっていた。そのため1930年には川崎武装メーデー事件、東京市電争議における幹部暗殺計画・車庫放火事件等の暴発事件を起こしている。 1931年8月1日、反戦デーにおいて非合法集会・デモ行進を組織した。 1931年9月に発生した満州事変に際しては「奉天ならびに一切の占領地から、即時軍隊を撤退せよ」「帝国主義日本と中国反動の一切の軍事行動に反対せよ」とするステートメントを出している。このころには、戦争反対の活動に力をいれ、1932年には「兵士の友」や「聳ゆるマスト」などの陸海軍兵士にむけたパンフレットを発行した。軍隊内部への浸透を図ったものだったが、この計画は弾圧を受けて失敗に終わった。