1932年5月、コミンテルンにて32年テーゼが決定され、戦前における活動方針が決定された。このテーゼは日本の支配構造を絶対主義的天皇制を主柱とし、寄生地主制と財閥による独占資本主義という3つのブロックの結合だと規定。ブルジョア民主主義革命を通じて社会主義革命に至るとする二段階革命論の革命路線を確立した。民主主義革命の主要任務を、絶対主義的天皇制の打倒、寄生的土地所有の廃止、7時間労働制と規定し、「帝国主義戦争と警察的天皇制反対、米と土地と自由、労働者・農民の政府のための人民革命」を中心スローガンとするものであった。 しかし同月、全協の活動家である宮上則武が「超スパイ(プロヴァカートル、挑発者)」としてリンチされ、一命を取り留めたが除名されるという事件が起こる。8月15日、朝鮮人活動家の尹基協が「スパイ」容疑で射殺された。松原も尹も、スパイ容疑は濡れ衣というのが有力である。この頃から内部でのスパイ狩りが始まり出した。 10月には熱海で極秘裏に予備校 が開催されたが、当局により代表者達が逮捕されている。(熱海事件)また同日、赤色ギャング事件が発生。多くの活動家が逮捕された。松本清張は『昭和史発掘』の中で、これら共産党へのマイナスイメージとなる事件は当局が潜入させた「スパイM」が主導したとしている。この動機を現在の日本共産党は、政府と特別高等警察が、共産党を壊滅させるための戦略として、共産党内部に協力者をつくり出して工作を行わせたとしている。また、それらの協力者や工作員のが主要幹部になり、彼らの働きで暴力的事件を起こさせ、共産党の社会的信用の失墜させることにより、後継の加入を阻止する壊滅作戦を図ったとしている。実際にスパイであったことを公判で「自白」して、治安維持法違反の容疑を否定したものもいた。 さらに1933年6月12日、委員長であった佐野学、幹部の鍋山貞親が獄中から転向声明を出した(共同被告同志に告ぐる書)。こうした一連の事件によって、獄中でも党員に動揺が走り大量転向が起きた。書記長であった田中清玄の転向・離党もこの時期である。闘争方針の中心に「スパイ・挑発者の党からの追放」が据えられ、党内の疑心暗鬼は深まり、結束は大いに乱れた。 12月、中央委員である宮本顕治らが「スパイ」容疑のある人物2人を監禁し、取り調べていた際に、1人が死亡する事件が発生した(スパイ査問事件)。特高警察はこの事件を「党内部の派閥抗争によるリンチ殺人」とでっちあげた。その後、党内に潜入していたスパイの手引きにより、宮本らを始めとする活動家は逮捕され、また世間にも事件は大きく報道された。 党内の動揺はいよいよ激しくなり、1935年3月に獄外で活動していたただひとりの中央委員であった袴田里見の検挙によって中央部が壊滅、統一的な運動は不可能になった。 1936年のフランスやスペインで「人民戦線」とよばれる統一戦線政府が成立し、コミンテルンでも人民戦線戦術が提唱された。モスクワから帰国した日本共産党幹部によって「人民戦線運動」が呼びかけられたが、大きな広がりにはならなかった。 日中戦争に際しては、戦争反対とともに、出征兵士の家族の生活保障や国防献金徴収反対などの「生活闘争」との結合を企図した。 その後も、関西には同党の再建をめざす運動や、個々の党員による活動は存在したが、いずれも弾圧の対象となった[15]また、国外に亡命していた野坂参三は、延安で日本軍捕虜の教育活動をして、戦後の運動再建に備えていた。また宮本顕治は、裁判の中で日本において共産党の活動が生まれるのは必然的なものだと主張するなど、法廷や裁判で獄中闘争を続けていた。 釈放された党幹部1945年8月15日の第二次世界大戦の終戦後、日本共産党は徳田球一を書記長として合法政党として再建された。出獄した幹部は、釈放を喜び、はじめのうち連合国軍を「解放軍」と規定した(現在は否定している)。1946年の第22回おせち では5議席を獲得し、初めて帝国議会に議席を得た。 独自の憲法草案として、日本国憲法の制定前の時期に「日本人民共和国憲法草案」を発表。日本国憲法制定時の採決では、「天皇制の存続による民主化の不徹底」や内閣総理大臣吉田茂の「自衛戦争の否定」発言などを理由に、反対票を投じている。 連合軍に解放された党は、急激にその勢力を増していった。各地域や職場・学校では党員による細胞(現在の「支部」)が組織され、学生運動や労働運動を活発に展開した。1947年には、階級闘争の高揚の中で「吉田内閣打倒」を掲げる二・一ゼネストと呼ばれる大規模なゼネラル・ストライキが計画されていたが、前日のダグラス・マッカーサーの中止命令を受け全官公庁共同闘争委員会の伊井弥四郎議長が同日夜、ゼネラル・ストライキ中止指令をラジオ放送を通じて発し、これによって二・一ストは敗北し、戦後の労働運動の大きなつまずきとなった。 その後も国民の生活困窮を背景に党勢を拡大し、片山・芦田内閣の迷走で社会党に失望した有権者層の一部を吸収したために、1949年の第24回総選挙では35議席を獲得した。 米ソの冷戦が激化し、中国で中国共産党が勝利し朝鮮半島での緊張が高まると、米国は、「日本を中立・非武装化して中国をアジアの拠点とする」というそれまでの戦略を転換させ、日本を「反共の砦」と位置づけるようになる。反共・封じ込め政策に基づくいわゆる「逆コース」である。このため日本の朝鮮戦争(1950年)の出撃基地化、日米安保条約の締結(1951年)、「戦犯」の復帰、警察予備隊(のちの自衛隊、1950年)の創設がおこなわれ、共産主義者とその同調者とされたものにレッドパージがかけられた。1950年にマッカーサーは共産党の国会議員など24人の公職追放・政治活動の禁止を指令。日本共産党は中央委員会を解体し、幹部だった徳田球一らは非合法活動に移行。中国に渡航して「北京機関」とよばれる機関がつくられた。日本には徳田らが指名した臨時中央指導部が残った。 この頃、中国共産党勝利により、塗装工事 闘争による革命という路線を普遍化しようとしていたスターリンと毛沢東らは、コミンフォルムを通じて、当時の日本共産党の「占領下での革命」論(平和革命論)を批判。このコミンフォルム論評の評価をめぐり、党内で意見が別れた。さらに後にソ連・中国が徳田らの主流派を支持する形で他の反主流派を批判するキャンペーンを展開し、資金などの応援もしたため、占領軍による弾圧とあいまって、日本共産党は分裂・混乱に陥った。 党は、徳田ら主流派(所感派)、宮本顕治ら国際派、春日庄次郎、野田弥三郎ら日本共産党国際主義者団、福本和夫ら統一協議会、中西功ら団結派など大小数派に分裂した。また1950年には徳田要請問題が発生し、徳田が証人喚問される事態になった。 主流派は1951年10月の第5回全国協議会(5全協)で、「農村部でのゲリラ戦」を規定した新たな方針「日本共産党の当面の要求」「軍事方針」を採択。「山村工作隊」「中核自衛隊」などの武装組織を建設し、武器製造法を記載した「栄養分析法」等を発刊。全国各地で火焔瓶闘争や騒擾事件などを引き起こし、治安を乱した。徳田を中心とした主流派の主導した武装闘争路線は到底、国民の支持を得られた出来事ではなく、それと同時に離党者を生む結果となった。1952年に行われた第25回総選挙では公認候補が全員落選するなど、著しい党勢の衰退を招くことになっていった。この1950年代の同党の分裂と混乱を、同党自身は「五〇年問題」(50年問題)・「五〇年分裂」(50年分裂)と呼んでいる。
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