〜厳しい転職の現状〜

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アメリカが連邦制であることに加え、自治の権限が高いことからアメリカの警察組織は細分化され、連邦・州・郡・市町村の各政府が独自の組織を対象とする管轄(多くは行政区画)ごとに設置できる。 警察以外にも警察活動を行う法執行機関が非常に多く、総員1名のタウンマーシャルのようなものから約38,000名の警察官を擁するニューヨーク市警察まで、法執行機関の数は20,000前後あるとも言われ、都市部では法執行官でさえ自分の管轄内に知らない法執行機関があるほど複雑である。 全米に約740,000人いる法執行官(日本法では司法警察職員が近い)のうち、12%前後が女性である。終身雇用が基本の日本の警察官と異なり、実力主義の慣習は法執行機関でも例外でなく、キャリア制度は存在せず、本部長級を含め、より良い条件を求めて他組織へ転籍する法執行官もいる。 ブラジルの警察は、それぞれの責任・権限に基づき連邦、州及び大都市が組織・運営している。 連邦政府は、連邦警察及び連邦高速道路警察の機関を擁し、麻薬、密入国等取締及びテロ対策の連邦法の執行にあたっている。州政府が責任を有する警察業務は、パトロール他の業務をPolicia Militarが行い、犯罪捜査は州警察が行う。市警察は、市の施設警備を主に担当している。 Policia Militar(現地日系人社会では「軍警(ぐんけい)」と呼称)は、ヨーロッパ諸国での国家憲兵隊と同じ任務についているが、連邦政府ではなく州政府の機関であり、また、軍における各憲兵隊(陸:Policia do Exercito 海:Policia da Marinha 空:Policia da Aeronautica)とも別の組織である。 転向(てんこう)とは、思想や政治的な主張・立場を変えること。特に日本で昭和初期の厳しい弾圧により、多くの人が共産主義・社会主義の立場を放棄した現象を指す。 転じて、「野球からプロレスに転向」、「文系から理系に転向」、「アイドルから声優へと転向」といったように、方向や方針、進路などを変えることも転向と呼ばれる。 戦前戦中の特別高等警察や投資信託 は、硬軟あらゆる手段を使って、「主義者」の「過激」思想を放棄させようとした。その際に、組織からの離脱を心理的に容易にさせるため、「これは変節ではなく、『正しい路線に転じ向かう』のだ」という論法が用いられた。これが“転向”の起源である。戦後、思想・良心の自由が保障されるようになってからは「日和った」「転んだ」と蔑まれた。 大正時代後期に社会主義思想が高揚し、1922年に日本共産党が非合法のうちに結成されたが、政府は普通選挙の実施と引き換えに治安維持法(1925年)を制定してこれらの動きに対抗した。第1回普通選挙の後、三・一五事件(1928年)、四・一六事件(1929年)と共産主義者らの一斉検挙が行われた。 三・一五事件の時に検挙された水野成夫が1929年に転向するなど、かなり早い時期から共産党員の転向が始まっていた。 1933年6月、日本共産党委員長の佐野学は、鍋山貞親とともに獄中から転向声明を出した。これはソ連の指導を受けて共産主義運動を行うのは誤りであり、今後は天皇を尊重した社会主義運動を行う、という内容であった。この声明は世間や獄中にあった運動家に大きな衝撃を与え、大量転向の動きを加速させた。 拷問による転向もあったが、警察官や検事に「故郷の両親は泣いているぞ」などと情に訴えられ、説得された者もいた。また、日本共産党などの活動は大衆との結びつきが薄く、主に知識人層を中心としたものであったため、活動が大衆の生活や要求と遊離していることに悩み、運動から離れた者も多かった。転向しなかった194名が拷問で殺され、1503人が獄中で病死したとされている(「文化評論」1976年臨時増刊号)。 昭和前期に治安維持法違反容疑で検挙された者は7万人を超えるといわれるが、多くの者が転向の誓約書を書いた。最後まで主義を貫いたのは日本共産党でも徳田球一・宮本顕治・袴田里見などごく少数(終戦後まで残り、法廃止で釈放された者は“人民戦士”と称えられ、党幹部になった)であり、ほとんどの者が共産主義を放棄し、転向した(江田三郎も転向組である。圧迫に耐えかねた偽装転向・仮装転向と称されるものも存した)。 当時の日本で主に国家社会主義への資産運用 が多かった背景には、統制経済政策に代表されるような全体主義という点では、共産主義も国家総動員体制も共通項が存在したためといえる。また、転向したものの中には、満洲国に理想の新天地を求めて、大陸に渡ったものも多い。もとプロレタリア作家の山田清三郎は、満洲で文学運動の一翼を担った。 戦後には、佐野や鍋山、平林たい子らのように反共主義の立場を維持したものもいたが、中野重治や佐多稲子らのように過去を反省してふたたび日本社会党や日本共産党に入り、社会進歩の運動に参加した者も多い。逆に、そのときに過去を隠していたとして批判をうけたものもいる。 とくに、文学の分野では転向問題をテーマにした作品が多くかかれ、村山知義の『白夜』、中野重治の『村の家』などが知られ、島木健作の小説『生活の探求』(1937年)は当時、ベストセラーになるほどであった。この中では、農民運動に参加し、検挙されてから実際の運動から離脱して文学の道に向かった島木と、文学者としてプロレタリア文学運動への弾圧によって転向した村山・中野とは位相の差があるのだが、当時はひとしなみに転向文学として扱われた。 近代日本思想史上に広く見られた現象として転向を捉えることもある。例えば、幕末に攘夷を叫んでいた倒幕側の指導者が政権に就くと、一転して欧化政策を取るようになった。思想家でよく知られる例では、加藤弘之が啓蒙主義の天賦人権論から国権主義的な社会進化論に主張を変えたことや、三国干渉に衝撃を受けた徳富蘇峰が平民主義から国家主義に転じたことなどがある。第二次世界大戦後には、日本全体で軍国主義から民主主義への集団転向が行われた、とも言える。また、1960年の安保闘争や平和運動で活躍した社会学者の清水幾太郎が『日本よ国家たれ』(1980年)で日本の核武装化を主張し、人々を驚かせたこともあった。こうした現象から、西欧で流行した思想に次々と飛びついた日本人(特に知識人)の底の浅さが指摘されることもある。 日本共産党員であったが主張を変え脱退した外国為替証拠金取引 には、古くは田中清玄・水野成夫・赤尾敏、最近では兵本達吉、左翼運動家から保守論客となった西部邁・藤岡信勝・渡邉恒雄、活動家としては佐藤勝巳が転向の事例として挙げられている。西部に対しても反米、反自由主義という点においては左翼や社会主義者と変わりがないという批判がある。それらとは正反対に雨宮処凛の様に、民族派から左派リベラル側に「逆転向」するケースも見られた。 そのような指摘がある一方で、転向が古今東西から広く見られる現象であることは確かである。 古くは革命家から反革命に転ずる者がいる。例えば、ナポレオン・ボナパルトはその典型である。ナポレオンは元々はフランス革命に参加したジャコバン党の熱烈な支持者であり、1791年に入党している。しかし、テルミドールの反動で逮捕された後、帝政派に転向し、世界に名を轟かせる皇帝となった。20世紀ではファシズムのベニート・ムッソリーニは初めはイタリア社会党員である(アドルフ・ヒトラーもミュンヘン革命に参加したレーテ活動家であった[1])。このように転向を経験したファシストも多く、最近の例を挙げると、アメリカ合衆国のネオナチのリーダーであるビル・ホワイトはかつてはアナキストにも共産主義者にもなった人物である。世界的に問題となっているネオコンもトロツキストから転向した者が始めている。このように転向はグローバルに見られる現象と言える。 但し、日本語の「転向」に相当する英語はない。